私は《関係性:Relationship》についての問題を,言語(バーバル)または非言語的(ノンバーバル)なアプローチで記録したり表したりしています。その多くは実質的に,私が〈私という存在〉を多面的に観察したり,そこから発展して視えてくる,より根源的な〈存在についてのイメージ〉の記録(制作)を試みたものです。

芸術家の仕事が,仮に,高度な技術的外見を達成することを条件付けられているとしましょう。そうした場合,芸術を巡る私の行いにはこうした必然性が希薄なことから往々にして私の作品はアマチュア的です。むしろ,私の人生的な日常の中で必然的に育まれてきた身近なアプローチを通して,私自身が一体どんな生態学的状況に根を張っているのかを見極めようとしています。私は大学まで油彩表現を専攻していましたが,私が好んで用いる技術は素朴なことが多く,表現形式も多様な傾向にあります。

普通,人間が自らの漠とした生に向けるだろう自覚や自認のためのアプローチは様々な様態があるのでしょうけれど,私の場合,もっとも激しいときには,私自身の歩みをできる限り傍観の態度がとれるまでいろんな方向へ引き剥がしてみます。これには宗教的な畏怖への没入のような感覚が必要なこともあるので,しばしば音楽の力を借りたりもしています。もちろん,実際には大して上手くはいきません。とかく試み続けることが大切なのです。いずれにせよそうした態度は,2011年から開始した〈メス(mes : surgical knife)〉のシリーズにおいて顕在化したと私は診ています。そこでは,私は自分自身の内面をはっきりとした対象物とするためにあれこれと診断を行いました。

私はこれまで様々なタイプの作品を作りましたが,今述べたような外部観測的態度は,〈メス〉シリーズにおいてもっともコンセプチュアルに結実しています。実のところ,私の技術はそれがデッサンであっても多くが〈メス〉的ですし,それ以上に,このアプローチは必ずしも私のオリジナルというわけでもありません。〈メス〉は確かに私が個人的に見出したものですが,その原理自体は人類史的なものとも言えるのではないでしょうか。
(一方で,文学的に‘物語化’することはしばしば暴力的なアプローチであるのですが,これには受容されやすいという実用面もあります)

それにしても私は,ヒトが生きることの多くの例に漏れず,ありとあらゆる存在が生まれては崩れ去ることを普遍的に繰り返すこの宇宙のただ中で,この身体が追々消滅することをただ受け容れておけば良いとは考えていないようです。少なくとも,私は私の生の窮状を注視したいと思う。

私の意識が自己の感情から距離を置くかのような言動をみせたり,自虐的な態度を採ってみせたりすると,当然,人はこれに辟易するわけですが,しかしこうした一見ネガティヴな振る舞いの背後には,主観に身を焦がすことを少しでも緩和しようとする能動的な意志が半ば無自覚にも働いていることは否定できず、必ずしもひねくれているというわけでもないのです。ただし,不器用ではあるかも知れません。

主観に癒着していないような別の視座を想定し,そこから自分自身の在りようを眺めたりすることは,精神的な成長には不可欠なことでしょうけれど,実際には困難が伴います。この手の困難に対する何らかの工夫がやはり必要でした。おそらく,その工夫として〈メス〉のアプローチが育まれてきたと言えるかもしれません。もちろん〈メス〉のシリーズ自体はアート作品なので,あくまでも「隠喩(メタファー)」というかたちで成り立っており,また同時に,一応は事実に基づくケーススタディーとなっています。

たとえ自分自身に関することであっても,理解することにおいては誠実であることが望ましいという心情も〈メス〉のアプローチには多分に絡んでいます。そうである以上はなおさら,私の中心から外部へ向けて放射するようにではなく,一度ならずとも自らの実像を外部的かつ多方向からじっくり時間をかけてあぶり出す試みを続けるのはもはや当然のことです。

これまでの作品は詰まるところ,私が〈私〉に対して為したフィールド・ワークの記録だとか報告(report )だと言って差し支えありません。発表というよりも,そうですね,やはりレポートというのがしっくりきます。

今後は,こうした経験を具体的にどう共有していけば良いかといった,コミュニケーションの問題に主軸を移していこうと考えています。〈関係性〉はむしろ,より直接的に自他を巻き込んでいくことで発展していきます。現に,それについてはすでに研究を始めているところでもあるのです。



※画像リンクの先に2011年に作成した〈メス(mes:surgical knife)〉のコンセプト文書があります

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