(添え書き)
大抵の場合、‘紙のカップかマグ・カップか’を選ぶようレジ・スタッフの側から促されるが、この時はそうしたやり取りが行われず、うっかりしていた。‘コーヒーの抽出が始まった時に’このことに気付く…、ほぼ‘代金通りの所持金’…、…‘出来事’に目をつむる…、‘香林坊の交差点を望む’窓辺に席を見つけて、…、視線が‘レシート’を掠(かす)める(‘マグの印字が際立っている’)…、眼前の光景を不意に認めておく。気持ちの揺れはまだ治らないけれど、コーヒーを、

2011.10-2016.3 Starbucksでの私 〈メス(mes:surgical knife)〉シリーズ







 概要 (2016.3.25 14:03 改訂)

 本作品は2011年に行われた Cafe & Gallery Musée での2人展「自らをみる」のために制作したものです。‘添え書き’の方は5年ぶりに手を加えた結果です。このこと自体もまた議論を呼びそうですが、また別の機会に。
 本作品とその添え書きで示されていることは、あきらかに、混沌とした状況から芽生えたひとつのイメージです。カルテは現場で書かれたものです。事前に作品制作を想定してペンと印鑑、作品の中心となるカルテを準備していました。
 自宅から出てスタバに向かい、入店してすぐに、想定していた状況とは異なる出来事が起きたばっかりに、なんだかしどろもどろな報告がされています。私は普段から堅い言葉を使う傾向ではありましたが、このカルテの記述では2重3重に堅さに拍車がかかり徹底的にぎこちなくなってしまっています。詩的な記述とはいえ極度にロジックも崩れている。著しく体裁を喪失していて自分でも恥ずかしい。つい自虐的なことを言ってしまいますが、そもそも想定外のハプニングに対して用意などまったくなかったのです。別に大きく取り乱していたなどということはまったくないですし、むしろ表面上は普段通りでいましたが、内心、カルテに書くことに関してずいぶん困ってしまった。とはいえ展覧会にどうしてもスタバでの状況に関する作品を出したかったし、他にもちょっとした事情がありました。そのあたりは添え書きでも仄めかしています。それゆえ本作品は結果的に不安をそのまま露呈させたようなものといっても概ね事実です。だから自然とこのような不穏な印象を自分でも抱いてしまいます。それにそのような印象は、これを観てくださる方も同様に抱くのではないかと私としては思っています。
 なので実は最近までこれは人目にさらして良い作品なのかとそのクオリティを疑ったりしていたことも事実です。雰囲気を取り繕ったやっつけ仕事と言われたら否定しようがない気がしていましたから。当時のMuséeでの展覧会 では展示しましたが、その後は一切人目に触れない状況にありました。廃棄も考えたほどです。

 それはそうと、件の制作の後、やはり目的を果たそうと思い改めてスタバを訪れました。この時はカルテを使わなかったので、結局、当初作る予定だった作品は実現していません。今となってはどういったものを作るつもりだったかも覚えていません。一応スタバのレシートや紙カップを素材にするつもりではあったので、渋々作った本作品とは別に改めて2つの作品を制作してもいます。最終的には3つの作品で構成されています。Musée での展示の段階では2点までしかできていなかったので、最後の一点は展示とは関係なく制作したことになります。ただ、いずれの作品も暗に混乱を引き摺ったまま作ったものなので、クオリティの面で、自分でもそれらを評価することは困難でした。
 現在は過去の作品群を今一度見直して自己分析を進める過程で、そのいずれもが、私が活動のテーマとしている《関係性》を読み解く上で意味のある作品として評価できることに気づいたので、このサイト上で改めて発表することに決めたわけです。5年も経つと、たとえスタンスは大きく変わらずとも多くの蓄積や精神的な変化があるのだということを実感しています。スタンスへの自己理解も深まったりしていて、徐々に制作のステージが移行しているようでもあります。

 以下の『「状況」と「解釈」についての議論』では、本作品および添え書きがどういった状況から生まれてきたのかについて随所で哲学的に説明を試みています。アプローチとしてはやや間接的な論及の仕方を採用しています。
 仮にこの作品を「解釈」するために何か一言二言決定的な発言を加えて状況のイメージを明確にすることもおそらくいろいろとできるとは思います。ですが、それに伴い状況とイメージとの分離が強く促されることになることにも注意を向けなければなりません。これは私たちの、イメージを得ようとする認識の副作用によるものです。何よりも、以下の議論ではそうした認識の問題である「解釈」に対してメスを入れようとしているので、いずれにしてもイメージを明確にするという「解釈」行為には用心せざるをえません。
 本作品においては、‘作品を観る’ということはつまり、‘生きている人間とその周囲の状況を観る’ということでもあります。私たちは、いわば‘他者’を評価しようというわけなのです。これはあらゆる共同体に備わる態度でもありますし、こうした営みは人間にとって普遍的とも言えるものです。しかし、…ともすると横暴な振る舞いでもある。
 「観る」と「解釈する」とは相互に密接な関わりがあります。以下の議論では「解釈」が作品制作だとか作品鑑賞においてどのように関わりを持っているのかについても暗に触れています。あるいは「解釈」の功罪にも触れることができたかと思っています。
 ただ、いずれにおいても十分な論及ができなかったことについてはご容赦ください。なぜならこれは単に作品である以上に、私の生態的状況を検体として様々な《関係性》について理解を掘り下げるために行われたある種の観察記録であり、フィールド・ワークの成果の一片と言えるものです。つまり作品の背後にはあまりにも複雑な事象があり、これを丸ごとモチーフとして制作したものだからです。今回の議論の目的は、固有の生態的状況に巻き込まれている私という検体に詳細に論及してこれを理知的に解剖することではなく、あくまでも状況と当事者の生きた関係にこそ問題の中心があります。

 一言、この作品を象徴しうる見方があるとすれば、それは端的に、‘人間存在の困難’と、ひとまずはそのように述べておきたいと思います。





 「状況」と「解釈」についての議論

 日常の状況において、見る、触れる、聴く、あるいは記録する、説明するなどといったことが‘意味’を持つためには、「解釈」を必要とします。自分の名前は何というか、歳はいくつで、今日は何がつ何にち、何曜日、時刻は何時か、などといった単純な見当識さえも一定の「解釈」を介さずには成り立たない。また、「解釈」は常に言語的というわけでもなく、むしろ直覚的(非言語的)に成立することの方がほとんどです。

(あるいはもしかしたら「解釈」は、徹頭徹尾、直覚的に発生して、その後で言葉を調整し、さらにそこから直覚へのフィード・バックが起こり、意味は次第に増幅されるというプロセスになっているのかもしれない)

 ただ、いずれの場合であっても、「解釈」はけっして実際の状況の代わりにはなりえない。それはどこまでいっても状況の一部から読み取られた内容にすぎないからです。当然、〈状況そのもの〉ではない。〈状況そのもの〉は、「解釈」によって読み取られた内容よりもずっと複雑なものです。言語的にせよ、非言語的にせよ、「解釈」が‘読み取る行為’である以上、「解釈」は、密かに、時に盛大に、正と誤との間を揺れてもいる。このこともよく問題になる。

 一方では、常に「解釈」が状況との整合性だけで評価されなければならないというわけでもありません。そもそも「解釈」は、高度に複雑な認知の構成によるものです。その結果の「解釈」がどれだけ状況から齟齬をきたしたとしても、それはそれで別の仕方で大きな意義にも繋がっていくこともあります。その場合には、「解釈」の段階において状況の複雑さとは異なる複雑さが生じることになるので、どちらがより複雑かなどという議論は無用になる。ただしそうなれば、「解釈」は元の状態との繋がりが損なわれるので、その「解釈」によって元の状況を批判したりはもはやできなくなってしまうということには注意しなければなりません。ですが、齟齬をきたしているかどうかを当事者が理解するのは難しく、齟齬をきたした「解釈」によって元の状況を批評することは、結局のところ、往々にして起こるわけです。

.............「状況」の具体的様相...............

 そうであるなら、たとえば‘添え書き’に見られるような、日常のひとコマにおいて顕在化している状況も、そしてその状況に対する「解釈」も、実際にはどちらも単純ではありえません。「解釈」の対象となる状況がいかに‘取るに足らない’としても、です。
 一旦、状況の話題に戻りますが、現場にはもっと多くの事が起きていたことは疑いようもないのです。現場にすでにあるものも重要ですが、居合わせた個々の人びとによって持ち込まれた私物もしかり、それぞれの内面の複雑な事情や過去の歩みも‘状況’の定義から排除しないなら、もはやそうした状況は広大な海に例えられるほど収拾がつかないものです。

 持ち込まれるものについて…、声や、体の大きさ、健康状態、怒りや悲しみ、…何でも持ち込むことができます。ある数人が会話していたら、その会話がどんな内容で、どんな口調で空間に響き渡るかで、その他の人々へ与える印象も徹頭徹尾同じではいられなくなります。※1
 会話するのは1つのグループだけとは限らず、…カフェであるならなおさらのこと、顕著なものだけでも、グラインダーの音だとか、コーヒー豆の香り、自動ドアの開閉だとか、スタッフの挨拶、誰かのくしゃみ、食器の音、…他方では自分の体調や、頭の中で展開する妄想や思考の推移、…窓からの光量、照明の外観や数、壁紙、混雑の具合、椅子の高さと机の高さの関係、隣にどんな人が座っていて、単に食事をしているのか、参考書を睨んでいるのか、スマートフォンを懸命にいじっているのか、…このように、すでにあるもの、後から持ち込まれたもの、ある特定の場を構成するそうした要素はうんざりするくらい無限に見出せるわけです。圧倒的な量の要素が一瞬のうちに絡み合って、ほとんど無限に複雑な場が形成されてゆくのが想像できます。しかもそうした複雑な状況から受ける印象も、それぞれの人の中で波があるというか、何らかのかたちで経時的に変化していることも確かでしょう。

(※116.3.26追記。おそらく、このあたりで別の議論もしなければならなかった。仮に状況が同じになることは未来永劫無いとしても、‘日常的観点からはいつも同じにも見える’ことも経験的事実である。つまり、空間、身体、意識、それぞれの関係を、それぞれのつながり方やその強弱なども踏まえてもっと繊細に紐解いてゆかねばならない。その上で、状況における「解釈」の位置付けもより実感を伴った形で明らかにできるように思う。)

.............状況から生まれる「解釈」の多様さと重層性...............

 では、「解釈」について改めて考えてみましょう。
 メモでは、私と店員のやりとりの一部だとか、周りを囲む空間と私との関わりが中心的に記述されていますが、よくよく気をつけなければならないのは、これ自体がすでに‘「解釈」の産物’だということです。現に私が記憶している限り、当時のスタバもうんざりするくらい複雑な状況にあったはずなのですが、‘添え書き’の記述はといえば、あまりに淡白な印象があります。確かに私という当事者が残したこの不定形な報告書は一次情報に当たるのでしょうけれど、当時の状況から極めてわずかな要素だけを抜き出して語られていることはやはり状況に対する「解釈」に他ならない。さらに言えば、私の内面に対する私のある種の「自覚」がそこで語られているわけですが、この「自覚」自体が、すでに私の内外の複雑な状況を、すなわち「解釈」している。そして、作品の当事者の事情から離れてこれを眺める鑑賞者の立場においても、‘添え書き’で語られている場面を理解するためにやはり「解釈」が不可欠です。こうして「解釈」は幾重にも重ねられてゆく。

 十全な用意と配慮で「解釈」にのぞむにせよ、そして「解釈」の内容がたとえ「的を得た」ものであったとしても、それが状況に寄り添ったものであろうとすればするほど、‘当該の状況の、その側面から抽象したもの’以上のものになるのはおよそ困難なことです。それどころか、「解釈」のアプローチを変えると、そこから導かれる‘意味’も変わってきます。これは到底避けられないことです。ましてや状況を裏打ちしている広大な問題にいたっては状況の中で顕在化していない以上、そこには「解釈」はほとんど及ばないので、結局、顕在化している状況から「解釈」が導き出す‘意味’は不十分なものとならざるをえない。とは言っても、「解釈」は一定以上の整合性を持たせなければ解釈者自身が混乱してしまうだけなので、「解釈」がうまくいかなかったりするところに対しては、解釈者は経験則を通じて欠落箇所に憶測をあてがうことになります。経験則はある限られた状況において効果を発揮しますが、経験の範疇を逸脱している対象に対して経験則が適用されると、しばしば大きな誤解などにも繋がってしまいがちです。これも無自覚に、頻繁に起こることです。

.............本質としての「不安」...............

 たとえ「解釈」によって何らかのかたちで理解が成し遂げられるとしても、状況をすべて、背後の‘海’との関係をも含めて十分に掌握できるということはありません。避け難く、‘海’に対しては、「解釈」は急激にその鋭さを蝕まれてゆくのです。…あらゆる日常の輪郭、つまり、あらゆる「解釈」においては、こうした‘不安’が、所与の条件として私たちの意識の陰でうごめいています。その上で「解釈」は、私たちの意識に、ものごとの‘意味’を提供しています。であるなら、そのような‘意味’はどこまでも偏りと共にある…、これは私たちの抱える不可能性の闇…、