,…静止画と動画の違いはいろいろと見出せる.(…厳然と横たわるとは言わない)
(動画・静止画というアプローチについて)
…視線が走る.視線は常に動き回る.このことが際立って自覚されることは稀である.私たちの注意は自らの視線それ自体の気配へと向けられはしない.そうではなくて,視線の先にある何かがいつも問題であって,固有の状況に《 involve 》されている時のその対象の気配が問われている.
視線はひた走りながら,多くのものをその身に絡めてゆく.この運動の軌跡によってやがて全体の,視線が辿ったその意味が,独特の仕方で顕わとなるに至る.意味はいつも後からやってくるか?わからないが,とかく私たちの経験的な事実によれば,視覚刺激をめぐる意味は視線がその多くを司っているということ.
私たちは少し変わったこともできる.視線を向かわせた方向とは著しく異なる方向にある傍らの気配を,“それを直接的に見ずに-観る”ことができる(このことは“視界の端で捉える”といったことに該当する).はたまた視線をぼんやりと大きく開放させて視野全体を観ることもできる.このとき全体は,複数の集まりとしてではなく,不可分な(概ね)1つの対象となっている.たださすがに,2つ以上の要素をまったく同時に,一挙に捉えることには困難を覚えるか,しばしば不可能とさえ言える.複数の視覚要素を回収するためには,とかく視線は走り回らなければならない.
この視線の蠢めきのさなか,私たちは間違いなく時間の中に生きているという感覚をどこかで持っている.
動画は待たない.私たちが視線の行方を決めかねていても,動画の表面は変化し続けている.ただ原理的には動画も静止画の寄せ集めに過ぎない.それが1秒あたり20フレーム(枚)とか30フレーム,近年の映像の高精細さにおいては60フレームも詰め込まれている.“静止画”に併置されている動画は全部で100フレームで構成されていて,特に球面波の断面としての平面波の移動がまだ全体の半分にも及ばないうちに70フレームを数え,その半分の時間でも50フレーム以上を費やしている.
波面の拡がりはある程度便宜的な表現に留められているため,厳密には実際にこのように拡がるというわけではない.製作の都合上,球面波の断面を透視図法で作図し,その結果描き出された楕円形をより大きな楕円として数パーセントずつ拡大することによって表しているため,次第に波と波との間隔が大きく開いてゆく.一方で実際の光学現象では波面の拡がりが次第に速くなるのではなく等速度で現象が起こるため,すなわち事実と表現の間に一定の齟齬があることは認めなければならない.けれど制作上の主眼は飽くまでも光が立体空間という媒質を伝わる波として描けるということを示すことであり,光線が全方向に隙間なく等速で円状に拡がることからより光源(波源)に近いものから光の波に呑まれていくことを描き出し,そして光源とオブジェクトポイントとの関係からシャドウポイントが出現する様を描き出すことであった.このときの3点の関係は直線関係である,ということが幾何学的な結果として,全体の動的な現象の中でそれとなく示される.
映像の内容がこうした厳密さをめぐる議論を引き寄せるにせよ,いずれにしても内容の如何に拘らずとにもかくにも動画は動き続けている.まさにこれは表現上の,あるいは動画が動画として機能するための不可欠の要件である.そしてそこに込められたメッセージを回収するために,しかし一挙に把握するようなことはできない.ある瞬間に観ているものがあれば,その間視えなくなっているものがある.この,何かを得る代わりに何かが得られないことを受け容れるといった,シーソーゲームのごとき“引き換え”を連続的に紡ぎつつ,全体の状況に対する大まかな予想も併せて,動画の経時的な様相を,つまり短期・長期的な記憶や,より直裁な想像の力を動員しつつその意味を見出してゆく.だから,動画を観るということは,まず観る行為の主体(主観)があり,また動画表面が常に同じではいないことを了解した先にある.
ただし動画を観るということは一種の強いディレクションに《 involve 》されるということでもある.犯罪捜査官のように徹底的な動画の分析に努めるのでない限り,とりわけ現代社会の映像文化に親しんできた者なら,ほとんど容易く動画の導きに意識が絡め取られてゆく。瞬間の中でより動きの大きなものに対しては特に私たちは目がない.このことについてはかなり意識的に注意をそらさない限り抵抗することは難しい.あるいはそこでは,“全き自由意志などというものが幻想に過ぎなかった”,ということを知っておくのも悪くないように思う.
静止画であれば,…どこもかしこもいつまでも私たちを待っているかのようだ.だから,静止画を観るということは,自らの裁量に任せて専ら視線を送る仕方だけが問題になる.何と何を比較するか,どれをどれだけ見つめるか.鑑賞者の自由が十分に開放されていて,それでいて視線の操り方でいろんな見方ができたりする.それが人の手によって意識的に制作されたものである以上,静止画においてもディレクションと無縁というわけではないけれど,それでも動画と較ればそのことはあまり問題にならない.さらに静止画の場合,経時的な変化も不在のはず(!)なので,画面を見ることを中断して一服することも悪くない.それどころか,長期間放置しても一応は構わない.久しぶりに画面を覗き込んでも,ひとまず,相変わらずの姿でそこに在ることが確認できる.おそらく,軽微な物理的変化はともかく,変化があるとすればむしろ私たち自身の方であって,もし静止画の意味がちょっとでも変わったというなら,静止画それ自体の変化がそうさせたのではなく,私たち自身の心の在り様が変わってしまったのであって,それに伴って静止画の意味を回収する仕方が,その内容が,すでにかつてとは違っているということ.
…当然,私たちと動画との関係においてもこのことは何かしら問題になっていたはずだが,素朴な静止画に較べて複雑さの程度が大きい動画では,そこに在るはずの幽かな気配に私たちの注意が向けられることは少ない.このことは,動画と静止画とを見るそれぞれの体験の対比によって,ひっそりと註釈が加えられるかのように間接的な仕方で露呈する.
次に,件のノイズが静止画に取り憑くことで静止画は静止画でありながら時間性を誇張するようになる.もともと静止画が私たちが視線を送る方向を自由にしている間ただ待ってくれているのとは違って,ほんの僅かであれ,ノイズが静止画に取り憑いて動きの性質を画面に発現させることで,その“静止画”はもはやじっとしてなどいられなくなる.私たちの視線が向けられるのをじっと待っているというようなことはしなくなる.よくあるスライドショーが静止画の寄せ集めだとするとき,このノイジーな1枚の画はそれでもまだ静止画だろうか.仮にそうだとして,しかしこの“静止画”は,自身が変化し続ける存在だということを私たちの意識に対して仄めかしてもいる…,あるいは確かにそれが私たちに対して“意図的に”働きかけてくるかどうかはともかく(,もちろんそんなことは考えられもしないことだが,しかし),少なくともその“静止画”の在り様は,それが結局のところ,絶え間ない動きに根ざしたものでもあることに注意を向けるように私たちに強いてくる.私たちが,“静止画”の表面をどれほど“静止イメージ”として捉えようとしたところで,あたかもそれを拒絶するかのごとく暴力的に噴き出し続ける動きのイメージ.ノイズ…,まさにそのノイズのせいで,悠久の静止状態が予想されるからこそ静止画としてみなされるはずだったそれは,絶えず運動するイメージという現実的な気配とともに私たちの意識の中へ押し寄せ続けている.それでもなお懸命に静的なイメージだけを捉えようと目を凝らしたところで,私たちがその人生において経験的に見出してきた“静止物の特徴”の覆いによってそれまで視え難くされていたはずの存在の“動的な本質”が,鑑賞という幻視の中で,苛だちにも似た執拗な静けさとして《 éclater 》する.なれば,そもそもこれは初めから静止画ではなかったことを認めよう.そしてもしこれがある種,動画であるというのなら,では一体何の動画というのだろうか?…時空の中で“何が”移ろっているのか.
図像の明示的な,ある科学的とも言えるイメージは辛うじて構造的なものとして確かに読み取ることができるが,同時にその表面は内容とは関係なく,ずっと,ノイジーに蠢めき続けていて…,圧倒的な闇だとか,暴れる色彩だとか,光陰の明滅,…深い暗がりの彼方に夜の街並みを見出すような,…,顕在的なメッセージ以外の曖昧な印象もまとめて幻視の内容に浸入してくる.このトータルなイメージからは,豊かな,というよりはむしろ,“固着した孤独感の広がり”が,ただただ,示され続けている.
2016.4.15