(以下は個人的な知識の整備のために記述したメモで、そのためやや極端な記述の仕方となってます。あくまでも私的なメモですので、単に情報の列挙の体裁となっています。ただしもとの内容自体は私が日本人の人間関係を考察する上で非常に示唆に富んだものだったので、掲載しておきます)
日本の家族観の原因?
日本の村落社会の伝統はいまや分化しつつあるが、その傾向の年月はまだ浅い。そしてその伝統の状況を整理したものが以下…↓
A「互換的共同関係」…稲作などの相互的な協同労働の必要から必然する原理であり、これによって家族、個人は共同体に内面化される。
B「集団聖化規範」…氏神信仰などによって共同体を宗教的に位置付けることで、Aに包摂済みの家族、個人を“実存的かつ合理的に”に呪縛する。
C「同統的序列関係」…共同体における集団生活の輪郭を、地域の氏神によって象徴される包摂システムにおける本-末の関係として“文化”する
…結果的に、身分を問わず全村落同一氏族というフィクションを醸成し、自ずと、あらゆる個人は村落共同体に包摂される生態学的状況が形作られてきた。
まさにこのことが、現状、日本人の道徳観の本質となっていると解することができる。そして家族は共同体の不可分な一部であり、それだけに、個人が家族または共同体と対立することは、いずれの場合であっても同じく全面的な対立とならざるを得ない。このことが、日本人の他人重視の志向性を後押ししている。日本文化全体に一般化されて語られることの多い「協調性」は、専らここに由来すると考えることができる。日本人はその生において、「他人」とは端から生活の大前提であって、この相互依存のために、一定の互いの信頼関係は自然と生じ、相互監視状態を強化してきた。互いの健全さアピールを欠かさないことで、村八分とならないように各々が心掛ける。このことが常態化することによって、他人を西洋人のように意識する必然性が乏しくなる。監視されている他人はある程度安全なものとなり、こうした他人が個人に内面化されることによって、他人への無防備も必然してくる。
個人の独立した権利は概念的には認識されたとしても、それをたやすく打ち消す共同体従属の態度が人びとの心に根付いている。(独立的)人権などというものは、考える必然は無く、むしろこういった考えは共同体精神への反逆ですらある。
さらに、物質状況的な相互依存は解消されたとしても、延々繰り返される教育の素材は専ら過去の教訓にこそ由来する以上、ここから形成される日本人の精神性がすぐに変わるような状況にはないことを、この問題は示唆する。
参考
異次元交換の政治人類学 嶋田義仁 p44-45,脚註p56(51)