私のこれまでの記述は「実人生の体験」というものの非言語的な複雑さを如何にイメージによって把握するかということの目標のために、ほとんど詩的形式に依存したものだった。さしずめ親しんだ絵筆のタッチが言葉の響き方に変わったというところだと思っている。それらは一応可読文章ではあるけれど、どちらかと言えば象徴作用に溢れかえった一枚のデッサンである。

だけども、これらに対して衒学的窮まる悪文だとの謗りも一般的感覚からは当然生じるわけで、そのとき私はどういった態度をとるだろうか?それは的はずれの批判なのだろうか。
もとより私は言論を戦わせる学者でもないから、“知の欺瞞”の埒外だとしても別に誰にも迷惑をかけないだろうけれど、一程度は論理を重視もしているし、確かに読解できるものであるべきという感覚があるのも事実なのだ。
クローゼットな感覚で、あくまでもイメージの覚え書きとしてしたためていた私の文体は、今でも私のかつて抱いたイメージや問題意識を“私自身が”振り返るのに結構役立ってもいる。だから、「書いている本人が何を書いているかほとんど何も分かっていない」ということはないということだけははっきりさせておきたい。当該の形式は、実人生の非意識下で激しく燻る、何とも言い切れぬ漠とした生の感覚と称するのが相応しいニュアンスも一緒に一言一句刻み込んだ“覚え書き”と言ってもよい。
他方、こうした“覚え書き”に込められた言葉の連なりの、詩的意味の緊張関係から生まれる個々の文章の構造がそれなりにもクオリティを達成しているという自負が伴って、いつからか私は人目に触れる場所に自身の文章を晒すようになった。文章に編み込まれた問題意識がもし他の誰かにもある程度共有してもらえるなら…?
しかし、これらの文体を“デッサン”的にどれだけ精緻にブラッシュアップしても、他人が読解し易い形式にはならない。記憶力の悪い私でも何度もその意味を振り返ることが可能な記録性を有している自身の文章は、主観的には内容の無い暗号ではないと云いたいが、あたかも独自の圧縮形式のファイルのように、基本的には他者の思考との互換性の弱いコードで編まれたものだということは確かではあるので、結局他人にはほとんど何も読み取れないために、外見上は言葉遊びの域を出ない。
ただ、言葉というものを厳粛に扱ったとしても、個々の言葉とその連なりについて他人が私の認識するのと同じ意味として読解することはできないという問題を私はしばしば考えることがある。もしこれが相互コミュニケーションにおける普遍的な事実だとしたら、共通認識を考慮して文体を構築したとしても双方の不満感は少なからず燻り続ける。況して私的に構築した文体にいたっては、そもそも書き手が文章を通じて何を言わんとしているのか、少なくとも詳細な解説なしにはまるで分からないというのはもっともであろうが、詩的(私的)に圧縮された表現はおそらく書き手自身にも十全に把握しきれるものではないだろうから、そうなると、詩の言葉を理解するとは何事かも実にはっきりしない。
世界の表象とその読解が基本的には「一瞥」の連鎖によって繰り広げられる以上、“見てわからないものはただの混沌”というようにしばしば把握されてしまうことは、そもそもの人間の性質を勘案すれば避けがたいことであることは明らかである。
あるいは、こうした混沌とした文体も見方次第で意図が浮き上がってくることを期待し、読み手と書き手との慣習的な距離を踏み越えて相手の言葉へ一層歩み寄るにしても、もともと言葉というものが客観的な真実としては存在せず、人間一般に見出される経験的な認識の共通性、あるいは類似性を根拠に互いの言葉の意味を読みとる他ない以上、言葉に関する理解は、結局は解釈する者の認識能力の基盤であるところの“自覚困難な経験則(ブラックボックス)”に基づかざるを得ないのが現実なのだ…。